Opop発刊誌
【 泉の扉 】 執筆・撰 皆川 滝雄
編集・校正 岡村 俊明
”明智光秀の本能寺の変 ”の続編
明智光秀侯よ、貴君の成したことは、朝廷政治として、今日まで続いている身分制度、そして、人間の本性の欲の終局的な行為、その結果として示される姿に ’否 ’という勇断決行だ。
その行為が、下剋上に立ち向かう、勇気ある決断とみた。歴史がどう判断するか分からないながらも、貴君は、断を下した。
下剋上は、新たな下剋上を生み、身分制度の継続を意味するが如く、継続している。
人間は、生まれて初めて、知識を得てくる。次に生まれる子は、その時点で再出発のように、先祖の方々から知識を得てくる。自己に目覚める欲と絡ませながら、再出発の道を歩む。
共生し、共存し、そして共栄の道を探りながら進む。この共栄の道の探りが、英知への道である。
知識が、知恵に変化し、そして、この経過の中、 ’智 ’への道を見いだすのであろう。共栄の道は、自己欲と、共存する社会観の中での ’智 ’を芽生えさせ、内面の葛藤に明け暮れていく。この共栄の ’智 ’が、俗に宗教の世界でいう ’悟り ’の境地といえる。これら、共生し、共栄し、そして共栄の道が、[ 共栄の ’智 ’ ]への終局であろう。
明智光秀侯よ、貴君はこの経過の道筋を歩いていると考えられる。支配者(織田信長)との日々の雑事に追われた貴君は、知力の限り、思考しているとみた。これら、共生し、共存し、そして共栄の道へと進む中、[共栄の ’智 ’ ]への展開が定まる途中に、時機到来の瞬時を感じ取り、その判断を後世の人に委ねて、行動を選んだと言える。
これが、結果として ”明智光秀の本能寺の変 ”として、後世の世に、宿題を残したのであろう。
この宿題は、文筆、通信、往来の自由な現代に至り、懸案として解決の調べが進み、この私の、新春号となった由縁であろう。
人間社会は、創世の時代から、占有の支配欲、その支配からの戦利の宝物に、自己欲の満足感に溺れている。
明智光秀侯、貴君の思考苦慮も省みることの出来なかった、後の秀吉は、その自己欲の満足感に溺れている。典型的な実例として粗末な結果を残している。無学の徒の、支配欲から生まれた、典型的な実例である。
その後、徳川家康は、この豊臣秀吉の嫡流を滅ぼし( 戦国時代の世、下剋上時代の終焉 )、その中で織田信長の嫡流だけは、残している。戦乱を勝ち抜く流れとして、敬意を示したのであろう。
また、その支配の策に長けた徳川家康、斎藤道三の流れを重く見て、その嫡流は残している。
明智光秀が子飼いしていた、斎藤道三の嫡流である斎藤利三の嫡流を重く見て、彼の配下にしている。一方で、組織や軍事面の配下では、松平家配下の11人組の組織を堅持し、それらに任じ、また一方では、自身の嫡流については、松平の嫡流、明智光秀、斎藤道三等といった嫡流を寵擁し、一族の固めにしている。戦国の世からかわって天下統一の平定を為し、支配下、組織絵図を作っている。九州の要の地、小倉に細川を配置し、( 加藤清正没後肥後熊本藩を改易し、この肥後熊本藩に細川氏を充てる )、秀吉下の加藤、黒田、小西等武将達に睨みをきかせている。
細川氏は、外様大名ながらも、明智光秀同様、足利室町幕府からの源氏の流れの嫡流である。譜代大名扱いである。
明智光秀侯よ、私は、これまで、幕末の長州の吉田松陰( 松下村塾の創立者 )の草莽の思想、草莽崛起の思想に身分制度の崩壊を考えてきましたが、これは、草々でした。つまり、吉田松陰には、身分制度の崩壊の意義、認識は、恐れ多くてそこまでは至っていなかった。と考えた方が、正解でしょう。この百数十年の踏み絵を、踏まなければならなった現実は、遠い年月でした。この年月は、遠すぎます。
突然ですが、携帯の普及は、他の人々の意思を知り、行動の原点を知るうえで、最良の道具でしょう。携帯の普及は、新しい革命をもたらす、幕開けの機会のきっかけになると思っていましたが、その時期が到来しました。
明智光秀よ、貴君の生きた時代は、まだ制度が、起こす障害の始まりのぞ代です。長州の吉田松陰の草莽の思想、草莽嘱起も、外国から列強が来て初めて起きたことです。吉田松陰の草莽の思想、そして、草莽崛起の思想から、高杉晋作の皆兵隊の行動にみられる行動は、まだ、身分制度の崩壊云々を考えた思想ではなかったようです。
一般人は、高杉晋作の僕としてついていた伊藤博文、公家の下級地位に泣いていた岩倉具視の小知恵に左右されて、明治以降を、経験しなければならなかった。
木戸孝允、西郷隆盛、大久保利通らの倒幕を掲げた勢力は、ついには江戸幕府を倒し、新時代を迎えようとしている。ここで、高杉晋作の没後、彼の下で働いていた伊藤博文、岩倉具視等は、黒船や海外からの夷敵を討つべく高杉晋作の皆兵隊の組織を、倒幕の軍勢としている。
いわゆる官軍として、幕府側の勢力に抗する軍勢組織にしている。
政権の傀儡、この時、生じている。
この官軍の大将に、武士の間を取りもっていた人望の高い西郷隆盛をあて、西郷隆盛は、倒幕の一念で同意し、長州、薩摩、その他江戸幕府に疑念を抱いていた藩を加え、皆兵隊は、西郷隆盛を大将に、世に官軍として、進軍している。
新組織の政府軍の官軍として、進軍している。これらは、伊藤博文、岩倉具視の策であろう。
一般人には、標語を発し、’勝てば官軍、負ければ賊軍 ’といった標語を流布し、官軍を政府軍、そして、幕府軍を賊軍と表わして、政府の官軍と、幕府軍との戦いへと進行している。
この標語については、 ’勝てば官軍、負ければ賊軍 ’といった衆愚政治の始まりの如き様である。この標語は、俗に、争いごとは、おそらく、中国古来の諭しであろう。この標語に、世相は動いてしまっている。
大半の日本国民は、西郷隆盛を擁する官軍を政府軍と思い、その後の政府は、この官軍を支配者とみている。倒幕の戦いは、正義の戦いであり、この流れは、その後、明治、大正、昭和、平成、令和と続き、今日に至っている。
明智光秀侯よ、貴君の放った政変は、次第に、内部の主体の本質を争奪する争いをしながら、官軍の主体が、何であるのかの探索等をしなで、諮問する組織もないまま、西郷隆盛を擁する官軍を政府軍として、幕府軍との戦乱へと進行している。従前の戦乱は、本陣を張るその中心であり、集団の行為の如何は、問われていない。そんな戦乱の本陣を言及、検索することなく、旧体質を軍の体質としている。旧来は、主体の大名等とは主従関係にあった上での、服従の従属であったが、この官軍の内部組織は、この従属の根拠が、規則、規律等を根拠としていることに、配慮する社会観が、芽生えていないままに、新時代を作り変えようとしている。ここには、隙間があり、抜け餓鬼の場が生じる。
君の本能寺で放った一刀は、今なお、進行している。
この後の展開は、私にも分からない。
” 明智光秀侯よ、ありがとう。時代は、新時代の携帯という武器を手にして、新しく入れ替わって、さらに進む。 ”
” 共生し、共存し、そして共栄の道が、[ 共栄の’智 ’ ]へと終局に向かって進行する ”
” 楽しみだ ”
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