Opop発行誌
【 泉の扉 】 執筆・撰 皆川 滝雄
編集・校正 岡村 俊明
” 明智光秀の本能寺の変 ”
ときは、室町幕府の末の、下剋上の時代である。
鎌倉幕府の武家政治は、南北朝時代の関東菅領、室町幕府から守護大名、または、守護代から武勇を馳せた、軍勢をもった集団等が、群雄
割拠し、天下の領地覇権争奪戦の時代である。
覇権を争い、領 地を奪い合う武力闘争の戦乱の世であり、世相は、い
わゆる下剋上戦乱の時代である。
この時代になると、朝廷の令外官の一つであり、政所としての役目
であった役職に、加えて、武家の棟梁と大将の征夷大将軍を朝廷は拝
命し、源頼朝を武家の棟梁として征夷大将軍職に任じ、武家政治の幕
府政治が始まっている。その治世は、鎌倉時代、南北朝時代、室町時
代と変遷してきた。
武家の棟梁としての流れは、源頼朝そして源氏の末である嫡流へと
続いている。征夷大将軍は、鎌倉幕府の源頼朝、室町幕府の足利尊氏、江戸幕府の徳川家康等が任じられている。
この室町幕府の末期が、乱世の戦国時代である。
この乱世に生を受けた、明智光秀は、薬屋から身を興し、大名にも
類する武将までになった斎藤道三に育てられ、知識と知恵を学ぶこと
となった。
明智光秀は、出生が足利氏の一族の土岐氏の嫡流であったことから、
周囲に大切に見守られ幼少を過ごし、知識と知恵を修得している。
こういった背景にありながらも、斎藤道三の処世から(斎藤道三の
娘が織田信長の配偶者となる。)、織田信長の知己家臣となっている。
その後、織田信長の家臣として功名を上げている。この間、知に聡い
秀吉らの台頭もあったが、戦国の世には、織田信長はその品行から、
否という判断に至ったようである。ここで、明智光秀の三女の娘は、
細川の嫡男の忠興の配偶者(ガラシャ夫人)に納まり、智に聡い娘の
行く末に安堵している。
明智光秀は、この乱世の世を、終わらせる手立てとして、知力の限
り試行錯誤していたと考えられる。人々を戦乱の世から守り抜く道を
模索し探している。
ここで、明智光秀が縁を持った細川幽斎は、足利将軍の流れの同門
であり、明智光秀も、出生が足利氏の一族の土岐氏の嫡流であること
から、縁を持っている。
徳川家康との接点は、多くはないが、乱世に終わりを告げるのは、
この織田信長であってならないという判断を下したとおもえる。
これらのことは、後世の世にも同じ悪癖を残す根拠となろう。
これは、宗教組織である僧兵の比叡山討伐の争いは、大きく影響して
いると思える。
明智光秀は、2~3千の兵の護衛しかいない本能寺の変の状況は、
織田信長を倒すには、またとない機会と判断したといえる。この折、
明智光秀の軍勢は、1万4~5千の兵力であり、明智光秀は、本能寺
に攻め入り、織田信長は、明智光秀の軍勢に、討ち果たされてしま
った。遂に、ここに変革の第一歩がなされた。
この後、徳川家康との接点を多く持っていたわけではないが、徳
川家康の知恵を高く評価している。また、徳川家康は、斎藤道三の
私見を高く評価し、その一門(春日局等)を要所に配置している。
細川家についても外様大名ながらも厚遇の扱いをしている。
しかして、下剋上の時代、乱世の戦国時代は、終焉したのである。
この ”明智光秀の生死を賭けた本能寺の変 ”は、後世の我々を救っ
ている。
徳川家康は、配下の人材を適材適所に配置している。配下11人
組の一人である伊奈氏において、水害の発生を防ぐ為に、河川支流
を整備して防ぎ、100万ともいう町民の物流を計るために、運河
などを整備し人流、物流を興している。これらは、江戸の町の栄華
に寄与している。各大名の力については、参勤交代制をつくり、戦
乱の時代を二度と起こさないように制度化して対処している。
こんな中で、将軍職の世襲だけが、朝廷政治をそのまま残している。
この将軍職の世襲が、のちの倒幕の引きがねになってしまった。
それ以外、明智光秀の思惑を越えて実現している。
明智光秀さん、ありがとう。貴君の生死を賭けた蛮勇は、500
年を越えた後世の我々を救っている。
ありがとう。
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